20代一般男性の価値観

価値観の記録

恥と時間

 

 

 

大失敗。

 

 

社会に出て失敗をしてしまうことは多々あっても、大失敗って数少ない経験だと思います。

何を持ってして失敗と捉えるのかは人それぞれだとしても。

大人になってからは、なるべく失敗をしないように、安牌を切って生きてきたつもりです。リスク回避というのか、ただ恥をかきたくないだけなのか。

 

流石に大衆の前で恥をかくことはないと自分は過信していました。

なんとなくぬるっと社会に出て、それなりに対処法を身につけてきたつもりではいたのです。

 

自分は少しばかりではありますが年齢を重ねたことによって、変な自信が身についていたと言いますか。もちろんそのような練習や訓練、成功体験を積んでいないわけですから。よくよく考えてみれば失敗するに決まっているじゃないですか。

 

それでは、なぜ失敗を犯してしまうのか自分なりにしっかりと分析してみようと思いました。

 

まず、その課題に着手するのが遅すぎたのが一つの原因です。

昔から期限ギリギリに課題を提出する質でしたし、大人になってもこれは直らないものですね。大勢を巻き込んで恥を晒して、尚且つ絶対に失敗したくない場所でしたから。なら、なぜ早く問題に着手しなかったのか。先の想像力がなかったからなのか。

 

あと、大緊張しましたね。そもそも、そのような大衆の目に晒されるような職種ではないですし技術職ですから話術が必要なわけでもないし経験もない。

物事には向き不向きが存在すると思っています。不向きな人間がやってしまうと大惨事になることは分かっていたはずなのですが、なんせ大切な友人からの頼まれごとでしたから断る訳にはいかなかったのです。

 

ある意味の使命感ってやつでしょうか。自分しかその役目を果たせる人間はいないのではと。もし自分が断りを入れ、他の人間がやっているのを見ると後悔してしまうのではないかと何度も考えました。

 

 

最後に私を後押ししたのは「なんとかなるだろう」という過信。

それは、今まではなんとか事なきを得てきたからです。

その時も恥をかいていたのかも知れません。ただ、その出来事は誰も覚えていないだけ。

社会に出る前の学生時代ですから楽しい記憶で上書きされます。それを分かっていなかった。

 

今回起こってしまった大失敗は大人になってから。

先ほど出てきました。失敗を失敗だと思わなければいいのではと。どこからが失敗であるのかという問題です。

大人なのですから、物事は考えようによってどうとでもなると。要はプラス思考に変換をし失敗を肯定してあげて失敗だととらえないことにする。

大人の対処法で、社会を生き抜く術です。

社会に出ていないうちは周りには仲間がいます。優しい言葉をかけてもらって元気をもらうわけです。不仲な人からの心無い声もあるかも知れませんが顔見知りなので幾分かはマシに捉えられました。

社会に出てからは違いますよね。周りには心の内を知らない人だらけです。人間の闇を知っていますから、ネガティブな思考が増幅していく感覚がありました。

 

その時は、もちろん周りに仲間はたくさんいました。その仲間は温かい言葉をかけてくれます。

でもそこで仲間以外の人からの心無い言葉が耳に入ってしまったのです。

それを重く捉えてしまいました。

大人なので分かっているはずです。あからさまに態度で出しても仕方のないことは。

しかし、その場の空気を悪くしてしまうくらいに今思えば態度に出ていました。

何か色々な思いが重なって、そこにとどめを刺されると想像以上に食らってしまう。

悔しさ。準備を怠った自分の不甲斐なさ。何度やっても学ばない。自分ならまだしも他の人に恥をかかせてしまったのではないか。もう取り返しのつかない。リベンジしようとも思わない自分への呆れ。。。

 

 

何度も言いますが、大前提に物は考えようだと。出来事は人の記憶の中からやがて消えてしまうもの。そんなことは百も承知で、ただ自分の能力を把握していた気になっていた上での期待や甘さ、驕りや過信が許せなくて。さらに他人からは簡単なことかも知れないことで躓いている。それを乗り越える能力を備えていないという事実に心底腹が立つということ。

 

 

こうして文として形にすると脳が整理されたように思えます。

社会に生きていく上でのリスク回避能力というものは経験でしょうか知識でしょうか。はたまた幾多ものリスクを想像できる力でしょうか。

そんなにすぐに想像できるようになるのか。時代は目まぐるしく移り変わり、その時代のその時に何が成功か失敗かなんて誰が想像できるのか。

なら、想像なんか無駄なことをやめて生きよう。

ただ、自分と向き合って現状を理解し、癖、性格、考え方を把握して謙虚に生きる。それだけしかできないのかも知れませんね。

 

人間は失敗を繰り返す生き物です。人生で絶対に失敗してはいけないという局面は要所要所あるはずです。

他人にとって別にその失敗は良くても、自分の中では許されない場面。また逆も然り。

自分が失敗だと思ったことに関しては、自分の能力不足が100原因です。環境のせいとかはない。今まで恥と向き合ってこなかった。思考してこなかっただけ。

 

社会に出る前に、恥との向き合い方を誰が教えてくれるのでしょうか。

そもそも恥は背負って生きていくものなのでしょうか。恥は置いていっていいものなのでしょうか。

恥は悪なのか。糧なのか。

大人は子どもに恥のないようにと。恥ずかしい大人は沢山いますが、その人は恥と思っていない。

恥は主体的なのか相対的なのか。

恥は後から出てくる時もありますよね。あの時、今思えばと。過去の自分を恥じたり。

反対に時間が経てば皆の記憶からも自分の記憶からも消えてなくなる。

 

恥は時間。時間が解決するのか。時間が恥を生むのか。

また、こうしてる間にもこの文章が時間をかけて自分の中で恥へと変化していくのかもしれない。

詩と死

 

 

人は欲望のままに生きていい。自由な時代に今はなっていると思います。

やりたいことだけをやって、楽に生きてみたい。

 

誰もがそう思うと思うし、誰もがその権利があると思っていて、その理想に近づくために総力を尽くすべきです。

後悔しない選択をし、来たるべき時に備えること。チャンスがくれば飛び込み、興味があることは徹底的にやる。

人の人生はせいぜい80年ほどで、歳をとればとるほど身動きが取れなくなることは20代である今でも実感していて、若いうちにやれることを全てやるべきだと思うのです。

 

人はいつ死ぬか分かりません。20代に入り身内の不幸が続き、より一層思います。その人が残してくれたもの、死をもって伝えてくれたメッセージや自分がその光景を見て感じたことは忘れずに活かしたいし何か形にして還元したいと思ったりします。

死を通し誰かに影響を与えることは誰もができる最後の役目だと思うのです。

 

 

最近ネットで見かけた在原業平の辞世の句

「つひに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを」

この句は死期を前に、いつかはくることだと知ってはいたけれど、まさか今くるとは思はなかった。という句。

 

 

俳句を詠むことは日本人がやっている古くからの言葉遊び。

これは今でいうフリースタイルダンジョンなど、古くから現代まで形を変えつつも言葉あそびは面白いコンテンツとして残っています。

戦国時代や幕末には武将や将軍、志士らが死ぬ間際に残す辞世の句が現代でも語り継がれるほどインパクトを残し死んでも尚いろんな人に影響を与え続けています。

 

今やTwitterやブログなどで簡単に誰でも言葉を残せるようになりました。

 

そこで疑問が出てきました。何をもって死なのか。どうなれば人は死ねるのか。死はなんなのかということです。

死んでもネットにはアカウントが残り続けること、本人が残した言葉が残ってしまうこと。生きていた時のまま止まっています。

人は忘れられたら死ぬという人や、心臓が止まり意識がなくなって魂は天国に行き三途の川を渡り、仏様の弟子となり修行に励むのだと信じる人もいます。

死というものはその人が信じているもの、または勝手に昔の人が決めたものであって、何をもって死なのかは個人的に決められるものなのではないか。また、死という概念が昔から決められた形から変わるのではないかと思うのです。

仮想空間で一度作られたアバターは生身の人間を投影しつつも歳を取らず、また死なない。人間が死んでもなお、動き続けるようプログラムされれば、、、、

そうなると死という概念はより幅広くなってしまう。死が軽くなる?それはいいことなのか悪いことなのかはさておき。

心臓が止まっても、残り続けるアカウントや言葉や画像映像がネットという宇宙を彷徨い、ずっとどこかで誰かの目に止まったりし続け影響を与え続けるのであれば、それは果たして死なのか?と思ったりしてしまうのです。

これからの未来、自分が呟きそうな言葉を勝手に呟いてくれるAIが誕生するかもしれません。そうなると皆さんは不老不死を手に入れたことになります。いや、そうなりますかね?

尊厳破壊と情報過多

尊厳破壊

プライドの破壊」「アイデンティティの破壊」に近いと思われるが、その結果として対のこれまでの存在・生き様・信念が否定され、心に大きなダメージを負う状況によく使われる。例えば、

  • 今までのプライドをかなぐり捨てるような屈辱的な行動をとらせる
  • 自分や仲間の変わり果てた姿や、その姿に変化する過程を見せる

等が挙げられる。2019年ごろからは「尊厳凌辱」というも多く使用されてきている。

尊厳破壊を受けたキャラクターは、立ち直れなくなったり、精神崩壊したり、悪堕ちしたり、洗脳されたりすることもある。一方で、尊厳破壊を受けても、その後元気を取り戻す場合も見られる。

性質上、成人向けの創作物では多く見られるが、尊厳破壊には必ずしも性的・グロテスクなものを伴っていなくてもよいため、一般向けの創作物でも見られる要素である。

                         〜 ニコニコ大百科引用 〜

 

たまたまこの言葉をSNS上で目にした。小説や雑誌でもわからない言葉があればすぐに調べる癖がついている。調べるうちにこの言葉がどんどん好きになっていくのがわかった。

何故なら、自分の中にあった言葉にできなかったものに名前があったんだと気づけたから。それを言語化出来るという喜びを感じたからだ。

漫画などを見ている時、自分が震える瞬間がある。思い返すとそれはキャラクターが尊厳破壊された時だった。もともとは性的な意味で使われた言葉らしいが、性的な意味ではないエロスがこの言葉には含まれていると思う。この言葉の意味は深いところにある。

 

 

屈強な男が何かを背負い弱き者を守るため、自分の身を挺してまで屈辱を受ける場面。

普段昼職で働くお姉さんが何かのために、夜は汚いおじさんを相手にするストリッパーになって、笑顔で会話してるが目の奥は笑っていない。

このような場面に遭遇するとドラマ性を感じ、色んな想像をしてしまう。

 

今回は尊厳破壊という言葉を取り上げたが、ネットを毎日見ていると毎日新しい発見があるのは言うまでもない。

それを見つけた時に喜びを感じ、また知識が増えたと満足する。

 

こうして日々ネットサーフィンに明け暮れているが、そんな中ふと思ったことがあった。

 

 

 

 

最近、妻と会話する中で自分が話す言葉に対して妻の頭上にハテナが浮かぶことが多々あって

馬鹿だなと思いつつも説明をしたり、自分で調べてみ?とすら言ってしまうこともしばしばだ。

妻に「いろんなことを知っているね」と言われ、自分は並の人より知識があると思い上がっていた自分は恥であると思う。

頭のいい人は相手のレベルによって言葉を使い分けて誰にでも分かりやすい説明ができるという。

 

今まで自分は無知は恥だと。

相手に知識を身につけた方がいいと強要していた。

 

しかし、今までの自分のこの考えは間違いだと気づいた。

知りすぎるのは不幸になるんじゃないかと。

 

 

知らぬが仏という言葉があるように物事を知りすぎると何事も嫌になるのではないか。

現に私は会社員になって3年を迎えようとしているのだが会社内の事情を知りすぎて嫌になってしまったことがあった。

知りたいという探究心、好奇心で簡単に知ろうとアクションを起こすと気づいたら余計なことに首を突っ込んでしまっていて、後に引けなくなる。

 

「オハラは知りすぎた」ある漫画のセリフでもあるように、知り過ぎると強いものから圧力をかけられる。

知るということの怖さを知った。

 

 

また、古代ギリシャの哲学者ソクラテスが示した「無知の知」は、己の無知を自覚することが真の認識に至るとする、真理探究の基本的な考え方としてられるの巨人は「知らないこと」よりも「知らないことを自覚しないこと」の方が罪深いと説く。 無知の知は人が物事を考える上での第一歩となることを指し示す。

 

 

この世でハッピーに生きるコツは無知で馬鹿のまま生きることだ」これもとある漫画での好きなセリフ。

自分の応援している芸能人がテレビで見せる姿、イメージとかけ離れた素行が世間に蔓延してしまう。嘘か本当かは置いておいて、それがきっかけでファンは以前より熱量がなくなってしまう。

これは今芸能界やメディアに露出している人間に対して頻繁に発生している。毎日誰かが炎上している。完璧な人間はいないが、画面を通して人を見ると不思議なことに神格化(自分でイメージを増大)して見てしまうのだ。

これは、その人が突然変わったわけではなく受け手側の脳が変化したということ。なので知識をつけずに生きる方が楽だと言っている。

 

 

 

 

これらを踏まえて、一つの答えにたどり着いた。人を幸せにするということは知識を与えすぎないこと。

 

この情報化社会で若者はインターネットを使って何でも知れること。それは幸せなのか。

 

ネットで他人の行動などを目にする機会が増え、自分の今の幸せはどこにでもある幸せだと知ってしまった時。

その幸せよりももっと大きな幸せがあると知ってしまった時。

人間は今ある幸せを見ようとせず、大きい幸せに向かってひた走るだろう。

 

 

ある巨人の漫画にもこんな場面があった。

あの壁の向こうにはどんな世界が広がっているのだろう。海という塩水がずっと遠くまで広がっている場所があるらしい。このセリフ。

誰しもが経験する田舎で育った子供が東京に一度は憧れるみたいに。

 

秋元康も歌の歌詞で。「あの山の向こうにはどんな世界が広がっているのだろうか。幸せな楽園があるのだろうか。いいや、あの山の向こうに住んでいる人からしたら、今いるこの場所は楽園なのかも知れない。」とアイドルに歌わせている。

 

 

ここでもう一度言わせていただきたい。

近頃、芸能人が受けている文春砲や暴露系YouTuberなどが多くなっている。芸能人のファンは裏側のことなんか知りたくはない、知る必要がない。知らない方が楽しめるからだ。しかし嫌でも情報は入ってくる。そのせいで何度も自分が浸っていた世界がぶち壊された。ファンは偶像に癒しを求めお金を費やす。一般市民は常に癒しを求めているからいつの時代も重要がある。これは歴史が証明している。

 

 

最後に、恋愛においても同様で相手のことを知りすぎないことは重要であると思っていて、適度な距離を保ち続けるのが長続きする秘訣。

 

人と同じ時間を過ごすうちに考え方等似てくるのは当たり前だと思うが、それをなるべく回避すること。

同じ考え方の人間と一緒にいるとつまらないし人として成長しないことは言うまでもない。

 

自分のことを曝け出しすぎないこと。秘密を持っておくと魅力的に感じるし、たとえそれが相手に知られたとしても、まだこの人には知らない所があるのかとプラスに捉えればいい。

 

物理的距離が近づくにつれ相手のことが見えすぎて知りすぎてしまう。それは自分が相手に与えることも同様で、理想の人といざ一緒の屋根の下で暮らしてみても許せないことの一つや二つ必ず出てくる。

理想が音を立てて崩れる。その時に幻滅し決断を下すのか。はたまた最初から理想の人と一緒に暮らすという夢を諦めるか。どちらにしろ知りすぎることは何事においても良くないのだ。

 

私は死ぬまで妻を「知る」という恐怖から守らなければならない。

しかし、私は「知る」という行為をやめることはできない。人間は知ることに快感を覚えているからだ。

幸せとは。コロナ禍での葛藤と祖父の死。

人間の幸せとは

 


幸せとは何かを考える。

人間は幸せを追い求める生き物だとする。

どこに幸せを感じるのか。

ありきたりな日常が幸せなのか、ヒヤヒヤして普段感じないスリルを味わって生きていることを実感して幸せなのか、また子孫繁栄として自分の血の繋がった子どもを愛し家族に囲まれることが幸せなのか、またこの世界に絶望し死を選ぶことによっての天国への希望、この世界からの解放によって幸せを感じるのか。

 

はたまた、幸せを感じることができる人間になることから始めるか。

人によって幸せというものが違う。

それは環境や境遇、出会い、自分の持っている力により幸せの感じ方が違う。

 

幸せの一致。

あなたが幸せであれば自分も幸せだと思える人との出会い。

 

それか、幸せの共有。

好きな人との子どもに恵まれて家族ができ、最後は家族に看取られて死を迎える。

何かを残すこと、泣いてもらえること。

 

色々幸せの形が存在するが、幸せの共有、これが最終的に自分の中での幸せなのではないかと考える。

 

 

 

逆に幸せじゃない時がどんな時かを考えてみる。幸せとは、どのようなものなのかが分かるはずだ。

人間は人間同士関係を持つと色々と災いが増える。しがらみや妬み恨み嫉み嫌みや僻みが蔓延し、さらにそれらが現代では急速にSNSが発展したことによって形として目に見えるようになった。

そんな中で生きている人間は不幸だと考えた時、それを回避できたら人は幸せになれることになるのだが、人は自分自身の力でこの現代を生きていくだけの能力があることが前提、殆ど無理だと人は支え合わないと生きていけないといつの間にか刷り込まれている。

だとすれば、支え合う人間は最小限にとどめ且つ災いが降り注がれない方法、災いを降り注がれても許せる存在、家族を増やすことしかない家族同士で支え合うこれが最善手だ。

 

今まで何度も何度もこの世界に絶望してきた。

考えれば考えるほど人間は愚かで醜い生き物で欲にまみれ自分の保身ばかり、優しさを偽り、表では優しい人に形成されてるが中身は悍ましく怖いものだ。

自分ですら自分の思考に呆れ、能力にも期待できず自分が嫌になることも数え切れないほどある。

弱い生き物のはずなのに各々が思う幸せを追い求め日々生きているがその姿というのがひどく滑稽に思えてならない。

今まで生きてきた人生で後悔したことは一度もないし今すぐ死んだとしても何の未練もない。

この世界は地獄だと考え、生きてるだけで不幸であると考える。

だが、一方でこの世界に生を受けた限り何か使命があって、残さなければいけない、また残したいという考えがある。

総括すれば、人間と関われば不幸なことが起きると、しかし関わらなければ生きていけない、最小限に関わりを持つならば血縁関係があるまたは戸籍上の家族または一族のみ。

そこで楽しむには1人で出来る趣味を見つけること。

 

 


ここで何故こんな文章を書いているのかという点について。

今、自分が幸せになるには自分の抱えてるストレスを発散することによって今の自分の立場や考えから離脱することである。

ストレスを発散する方法として文章を書き記すこと。趣味でもあるかもしれない。

 

今自分が抱えてるストレスは客観的に考えて分かったことでいうと、

このコロナ禍社会においての各々の価値観。

それに妬み嫉みを引き起こしている自分の不甲斐なさに怒りを感じてるいるのだと分かった。

 

コロナ禍以前、自分のストレス発散は人と会って会話しご飯を食べお酒を飲んだりすることだった。

それにより社会から、全てのしがらみから解放される感覚があったからだ。

その方法を見失った今はまだ他の手段を見つけられないでいる。

この方法は他のどの手段にも変え難いものであった色々試行錯誤したが何にも補完できなかった。

 

そこでコロナ禍など関係なく今まで通りの行動をとろうという考えになる。

すると、その行動によって迷惑をこうむる人が現れる。

その人はというのは「我慢をしている人」だ。

ある程度我慢ができる人間、その人は完全に自粛しコロナに気をつけながら生活を送る。

その労力は凄まじいものだ。

その人が周りの人間のせいでコロナに感染するとすれば自粛してきた人間の努力というのは報われない。

実際にYouTuberや芸能人、スポーツ選手や政界の人間で自粛を怠った人間はSNS等で叩かれ解雇や被害総額がすごく出ている人間も目に入ってきた。

実際に叩いている人間は自粛しているのかどうかは定かではないが日本では今とるべき行動ではないとしている。

それがそもそもクソで、見ているだけでこっちがイライラしてくる。

しかし、実際自分の会社の人間で完全に自粛している人や世帯を持っている人がいる。

もし、その人たちに自分の行動によって感染させてしまったら世帯主なら家族にうつし、小さい子どもやお年寄りにまで感染させてしまうことも可能性としては0ではないことは確かだ。

また、会社の人間の多くに感染させてしまった場合、クラスターを自分が引き起こしてしまった場合は、

もちろん会社は営業できず、その期間の被害額であったり、休業になると社員全員が収入ゼロになってしまう可能性だってある。

また、コロナ禍が落ち着いたとしても他の会社からの風評被害がないとは言い切れない。

 

考えすぎかもしれないが、それくらい大ごとになってしまう可能性だってある。

そう考えると会社をクビになる可能性だってなきにしもあらず。

全て可能性の話だが、自分はいつも最悪の場合を想定してしまう。

これは全くダメなことではないと思っていて

人によっては考えすぎなどと言う人もいるかもしれないが、それは間違っているし考えすぎていて悪いことなど1つもない。

 

自分だけが苦しむならまだしも他人まで巻き込むのはごめんだ。他人に迷惑をかける行為こそ人間の行為の中で最も愚行なことだと思っている。

となると自分と欲との戦いになるわけだが、実際我慢しきれず友人と2.3回飲みに行った。

どうしても我慢できなかった、彼女とも毎週のように会ってしまった。

実家のばあちゃんからは、「辛いけど我慢せなあかんで」と「お互い頑張ろうな」と何度も言われたが我慢できなかった。

自分ではすごく我慢していたつもりだ。

しかし、SNSを一度見てしまえば友人たちは楽しそうに色んなところへ行き、いろんな人と遊んでいる。

そんな風に見えてしまうし、そう感じてしまう。

そこに嫉妬し自粛している自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。

 

ただ、遊びに行くななんか言えるわけがない。

人それぞれコロナに対する見方や考え方は違って当然。

色々自分の中で葛藤する毎日だった。

 

 

そこで先日ついに発熱。

コロナは陰性だったのだが熱が数週間続いた。

あまりにも辛すぎて食べることも動くこともできなかった。

 

これで自分の価値観は大きく変化した。

会社へ連絡をするにつれ、色んな人間が動くのが分かったし実際自分の甘さによって迷惑をかける人が出たという事実。

 

このことを深く受け止めた自分はマスクをとるのが怖くなった。

 

熱が数週間続いた後、容態は回復し復職寸前で祖父が他界。

もちろん病院側はコロナ対策で家族面会を禁止としていた。

祖父は家族誰にも看取られず静かに息を引き取ったのだ。

お通夜で久しぶりに見た顔は一生忘れない。

最後何を思って死んでいったのかずっと考える。

幸せとは家族に看取られて最後を迎えることなのか?

幸せとは好きな人に最後会えて気持ちを伝えることなのではないか?と色々考えてしまう。

 

祖父にとって幸せとは何だったのだろうか。

 

孫としては意識のあるうちに顔を見て言葉を交わしたかった。

それを邪魔してきたのはもちろんコロナだ。

今でも悔しくてこの怒りをどこにぶつけたらいいのか分からない。

もどかしく、苦しい。

 

しかし、自分の欲、行動はコロナ拡大に大きく貢献している歯車の一部だと思う。

自分の気持ちの中での矛盾が生じてしまう。

遊びたい、飲みに行きたい、彼女と会いたいという気持ちと祖父の思いを考えるとコロナが憎くて仕方がない。

この2つの感情が入り混じり、どうしようもなくなった今。

 

最終的に自分の考えは遂に「どうにでもなれ」という考えに至った。

後先考えず、言葉を発し、行動し欲のまま生きること。

この文の中盤でも言ったが、今まで後悔したことは一つもないと。

しかし、この「どうにでもなればいい」という考えに至った自分。

今のままじゃ幸せになれないのは分かってる。

 

個々で描く理想の未来は違う。

その理想にどれだけ近づけるかが人の幸せ。

(プラチナエンドから引用)

これから自分は後悔してしまう行動に出るかもしれない。

その先に幸せがあることを願って。

天動説と地動説と自分の価値観。

「チ。〜地球の運動について〜」という漫画を読みはじめたのですが皆さまご存知でしょうか。

 

人々はかつて天動説を信じていた時代があったのですが、それは宗教的な思想が絡んでおり、天動説を否定すれば神をも否定することと同等な意味と捉えられ罰せられると。

漫画を読んでもらえれば深く理解できるのですが、これを読んだ個人的感想をお話ししたく思いました。

 

急ですが、

自分が今まで芯を貫き行動してきたこと。全て間違いだったのではと感じた瞬間の絶望を味わうくらいなら死にたいと。思ったことないですか?

 

僕はそうならないように自分の言動全てを肯定してしまいます。

 

例えば、僕は何も考えず将来の夢もやりたいことも見つけられずに変な意地だけがあった高校生時代。

なんとなくで進学するのが嫌だったこと、周りの人間に流されるのが何故か嫌だったこと、理由もなく親に甘えて数百万の学費を払わせるのは申し訳ないという変な意地のせいで進学を諦め、フラフラすること数年。

この経験は無駄ではなかったと自分を肯定しないといけない。

 

周りの人から見たら間違いと言われることを間違いじゃないと言い切らねばいけないことは人それぞれあるかと思います。

 

悪い部分は見向きもせず自分は絶対に間違っていないと。

だって、自分が自分を否定してしまった瞬間、そこに待っているのは絶望なんですから。

 

でも、人生において、自分の信じていたものが、全て覆ってしまうのではないかと感じてしまう出来事が起こりそうになる時があります。

 

この漫画の中で天動説を唱える学者達は、壁にぶち当たります。天動説だと説明できない事象が起こるのです。今まで人生を賭けて行ってきた研究が全て否定されるのです。それも自分で自分自身を否定してしまう。この辛さったらないのです。

 

 

覆ることが良いのか悪いのかは分からない。

しかし、訪れます。いつか全ての価値観が変わる時、信じているものや考え方が変わる時が。

 

 

世の中に絶対なんてありません。

当たり前のことを覆す苦悩と葛藤を描くのがこの漫画です。

 

作中にこの世界は地獄だが、地獄にしては地球は綺麗すぎる。

こういったことが書かれています。

 

 

僕自身この世の不条理さ不平等、無駄な労働、規則風習、故にこの世界は地獄だと思ってしまっています。

いわゆる、環境のせいにしてしまうタイプです。自分は悪くないと肯定してしまうがためです。

さらにこの情報化社会において自分の周りの人間の行動や思ってることが昔よりも見える状況になりました。

これにより自分と比べてしまうことによって自分は不幸なのではないかと思ってしまうことが多いです。

ある程度周りには下に見る人間を置くことは大切だと思ってしまう。

そんな事を考えてしまう。そんな世の中は地獄だと。

そう思ってしまうのは、自分の視野の狭さが原因だとこの漫画に感じさせられます。

 

 

 


漫画に話を戻すと、

天動説が揺るぎない事実だとなっている15世紀。

天動説が真実の世界、今自分がいる地球を中心に星々が回っていることになります。

 

すると地球は全宇宙の底になる。そうなると自分はそこに存在している限り底の人間だ。

という考えが生まれます。

天にある星たちは自分より遥かに高貴な存在。

見上げれば光っていて綺麗で、むしろ自分たちを見下すかのように無数の目が押し寄せてくる感覚。

自分より周りのキラキラ輝いてる人たちが良く見え、自分がちっぽけに思ってしまいます。

目を背けるのは簡単ですが、そこから目を背けてしまうとただ自分の足元を見て歩くのみの人生。

それって幸せなのか不幸なのか。分かりません。

 


無知で純粋な気持ちを持っている子どもの時、

夜空には無数の星が広がっていてただ綺麗だといつまでも見つめてしまう頃があったはずです。

この世のことを知れば知るほど荒んだ感情が出てくる。そんな自分が嫌になります。

 

 

 

 

 

 

この天動説の全てが覆るならばと。

地動説を唱えます。これは今まで考えられていた真理を真っ向から否定し、それを信じ続けている人間をも否定することです。

 

地動説。
天にある星々と地球は同様に自転公転をする星になり、よって天と地球は同等の価値になる。自分たち人間は底辺ではなくなり、この世界は地獄ではないと神がつくった天にある星々と同等の価値になりますと。

 


作中では、「この世界は底辺で苦しみが多く、救いがあると思ったことも少ない。だが、最低と言うにはこの世は魅力的すぎる」と。

 

このセリフは痺れすぎました。


たしかにこの地球は綺麗な形をしていて、きれいな動きをする、綺麗な自然が豊かにあり、様々な現象が起こり神秘的で、多種多様な生物が共存している。

 

 


しかし、これを踏まえた上でも、自分の考えは揺るぎません。

現代の情報化社会を知れば知るほど、年を重ねれば重ねるほどこの世の不条理さ不平等さ希望のなさに気づき、なお地獄と思わざるを得ません。

 

 

 

もしこの地獄という仮説が覆るのではあれば、覆せることができるのであればそれは何なのでしょうか?

 

 

自分も地動説を唱えるぐらい、天地がひっくり返るぐらいの価値観の転換があるとすれば、僕たちは夜空に輝く星たちの一部だと思えることができれば、この世がもう少し生きやすくなるのかもしれません。

 

 

最後に、自分は天地がひっくり返る出来事が訪れることをずっと期待しているのではないかと。
そこで20代も半ばにさしかかり、感じたことがあります。

数年以内には理解しているはずです。この世界は素晴らしいものであると断言できる状況が来るはず、これは確信であって人間が生まれてきた理由、生きがい、この瞬間の為に自分は生きてきたのだと感じることが起こるはずなんです。

それが自分の生きる意味だと、それに出会った瞬間はきっと分かります。

その時絶対に流れる。頬につたう涙が教えてくれるはず。

 

自分と血の繋がった生命の誕生は神秘的なものであると。

 

その事象は僕の中の価値観や考え方や概念、生き方全てをひっくり返してくれると確信しています。

それと同時に自分をこの地獄から救ってくれると信じています。

【インスタントフィクション】髑髏万博先生のハイパー解釈と作り手の意図について

 

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まず、このインスタントフィクションと呼ばれている「自由な発想」と「気軽なノリ」で書かれた文章。自分の思う「面白い」を入れた400文字以内で表現されたもの。

 

これをまず、読んでみて少しでもいいので自分はこう解釈したと、ここはこの様な意味ではないか、など考えてみて欲しいです。正解などないですから、自由に。後悔はさせません。

 

そこから動画をご覧いただいて、またここに帰ってきていただきたいです。

 

又吉のハイパー解釈を東大生と人気塾講師に見せたら…驚きのリアクション連発!!!【#21 インスタントフィクション】 - YouTube

 

 

作品を生み出すという労力に対するリスペクト。作品(映画だったら各カットごとに、本なら言葉)全てに意味があるので、全てを理解しようと自分なりに解釈してみようという楽しさだったりが大切なことだと伝えたいです。

 

溢れかえる作品の中、現代人はその作品の解釈能力を蔑ろにし、作品を消費しがちだと。

それはすごく勿体のないことで、また今の若い子たちは話題や流行りに遅れを取らないように映画を早送りしたり、本や漫画のネタバレなどを見て作品を消費しているらしいですね。

そうなれば作品を楽しめる能力が低下するはずで、本当に面白い作品が埋もれ、出てこない状態になってしまうのではないかと不安です。

今のテレビの状況がそれに近いと思っているので僕はテレビを全く見なくなりました。昔はテレビっ子だったんですけど。

僕を含め、受け手が表面的な部分でしか理解できないようになってしまったからだと思ってます。

 

作者の全ての意図を汲み取ってあげろとは言っていなく、ここで作者は何を伝えたかったのかなんて全く考えなくていいということ。

自分はこれを読んでこう解釈したんだ。が全てで、それが大切。

正解なんてないですし、ましてやその作品に触れる年齢(経験の数が違うほど)により答えが違ってくるのは事実ですから。

解釈の違い。そこが面白いところなのに、これに気づいてない人がいれば知ってほしい。

 


YouTubeのいいところはコメント欄。

色々な解釈があって気づきがあって、人の人生によって解釈が180°違ってくるのが作品です。

自分のその解釈は浅いと思わないでほしいですし、他の人にとってはそれが深いことであります。同じ人生を歩んでいる人は1人もいないんですから。


作品を解釈することを続けていると人間関係も良好になると思うんです。この人は何故怒っているのかとか、何を伝えたいのか、何を感じて欲しくてそう言うのか、人に寄り添うこと。人を知ろうとすること。人の考えは全ては理解できないのは当然なんですけど、理解しようとするということが大切なのではないのかなと、それの練習としてこの又吉先生のインスタントフィクションを取り上げたわけですが、いかがでしたでしょうか。

 


僕自身も何文優れた人格の人間でもないのですが、1番に伝えたいメッセージとしては社会の理不尽なことを受け取り側の解釈の選択肢を広げることによって、プラスへと消化し気持ちを楽にして若者は生活してほしい。

ということが全てでございます。読んでいただきありがとうございました。

 


最後に、又吉先生さすがですと。芸人としてこのYouTube動画を作っていて、自分の伝えたいメッセージと、笑いを共存させるのが上手くて、文章が苦手な人の壁をなくさせるためにサルゴリラ児玉さんを配置し、コメンテーターとして本物の人たちと交えて、芸人のライス関町さんとスパイク小川さんを入れ、コントチックに作品をおとしていて流石だなと頭が上がりません。

キングオブコントの会を通して松本人志が言いたかったこと。若造なりの解釈。

 

 

キングオブコントの会

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皆さん、見ましたでしょうか。松本人志が20年ぶりに民放でコントをすると話題になりました。

僕たちの世代が幼い時見て育ったお笑い番組といえば、「めちゃイケ」「はねるのとびら」「エンタの神様」「レッドカーペット、レッドシアター」などが全盛期の時代。

松本さんが現役でコントをやっている姿は見たことがあまりない世代です。「ドリームマッチ」で内村さんとの刑事というコントが印象に強く残っているぐらいで、あとはM-1の審査員をやっている人か、映画を撮っている芸人さん、年末にお尻を叩かれているおじさん。ぐらいのイメージしかないのです。

今、テレビで活躍している芸人さんのほとんどは口を揃えて言うのは「松本人志に憧れて芸人を目指しました」と。

僕たち20代の世代は、松本人志がどれくらいすごい芸人なのかというものを知らない世代であることは事実です。そんな世代がお笑いというものを理解できる年齢になって初めて松本人志の実力が確認できる場、それが「キングオブコントの会」でした。

さらに、このご時世にカリスマ松本人志はどんなメッセージを込めたコントを書き下ろすのだろうか、今の芸人たちに向けて何を残すのだろうか、世間にまだ松本人志は死んでいない。現役だ。と知らしめるのだろうか、とワクワクが止まりませんでした。

 

 

豪華なメンバーでつくるコント。各々の実力は今の日本でトップクラスのコント師しかいません。売れっ子の芸人さんたちが忙しいスケジュールの中コントを考え、たくさんの目がある中で実力を示さなければいけないプライド。さらに松本さんの顔に泥を塗ってはいけないという何層にも重なるプレッシャーがあったと思います。それを上回るプレッシャーを受けるのが松本人志。相当な重圧だったと思います。僕ならと考えると鬱になるかもしれません。

 

面白いネタを作るには、コンビ間の阿吽の呼吸、ちょっとした間や熟練されたテンポが大切だと思っていて、それは漫才にもコントにも言えることなんですけど。積み重ねた練習の数。何時間も試行錯誤してくだりを考え、ボケの数を増やしたり、展開の順番を変えたり、オチのアイデアを絞り出したり、一つのネタを完成させるのに膨大な時間がかかるのを忘れてはいけません。

おそらくですが、今回はそこまで時間をかけられていないはず。

 

それを踏まえた上で、コントを見ていただきたい。

 

 

蓋を開けてみれば、まさに圧巻でした。お笑いに関しては素人なので技術面は全く分かりませんが、素人目から見てみれば他のコントと比べて一つ次元が違うという印象でした。

まず設定のアイデア。「おめでとう」のコントは始まってすぐに視聴者が東京03飯塚さんと同じ目線になってコントに入り込めるというところ。ほとんどのコントって観客側が俯瞰的になって面白い状況を見て、次第に変わっていく展開を見て笑うという構造が多い中、このコントは開始数秒で何か違和感を感じ、その違和感を持っている人が劇中に存在していて、その人と一緒に違和感を解き明かしていくという構造。これなら練習を積み重ねなくとも面白いと思ってもらいやすいシステムになるし、ただ見ている人の違和感となる松本人志が暴走するだけで、読めない展開や裏切りに引き込める。素晴らしいと思いました。

 

次に、後輩たちへのメッセージ性。コントの作り方だったり、テレビコントなりの見せ方、後輩たちのネタをリスペクトしそれぞれの長所を生かしたネタ展開で笑いをとるというカリスマ性にも脱帽でした。

 

コント内容について。「おめでとう」という言葉は言う側と言われる側の心の距離によって言葉の重さが変わる言葉だなと思っていて、

今の時代色んな人が何にも考えなくても表現できる場が存在して、不特定多数の人が閲覧できる場に自分の考えや言葉を軽い気持ちで発信できますよね。

心の距離や人間関係など度外視され、自分の言いたいことを好きな時に発信できる権利を持った状態で、「おめでとう」は多用され、SNS上で飛び交っている言葉のひとつ。

僕自身、おめでとうという言葉は関係性が近ければ近いほど響く言葉だと思っているんです。僕なりの解釈なんですが、この言葉は軽々しく口にするものではないと思っています。軽く口にしても響かない。

心の底からおめでとうと言う人もいるかと思いますが、言われた側からしたら顔も知らない人から何千件と言われる「おめでとう」応酬。響くと思いますか?

 

コントの最後あたりで、松本さんが見つめる先にはテレビがあり、そこに映し出されてるのはさまざまな「おめでとう」の形。ここでも沢山の「おめでとう」を切り取っているのですが、ニュアンスが違う別の種類の「おめでとう」がありました。

心がこもった「おめでとう」は近い人が言うことにより価値が増す。

芸能人の結婚、出産など置いといてまず、1番近しい大切な人に心を込めてとびきりのおめでとうを言うべきだと。

有名人の不倫、離婚、所詮他人の恋愛なんですから踏み込まず外野がとやかく言うことではないです。マイナスなことの方が人間って響くんですよね不思議です。

あくまで僕自身の「おめでとう」と言う言葉に対する価値観であって、不特定多数のおめでとうに感謝する人間もいることだと承知の上で書いてるつもりです。

 

話が逸れましたが、松本人志さんは僕の期待を裏切ることなく実力を証明しました。と同時にお笑い芸人へのリスペクトが高まり、芸人さんになることは諦めたことをここに残します。