20代一般男性の価値観

価値観の記録

詩と死

 

 

人は欲望のままに生きていい。自由な時代に今はなっていると思います。

やりたいことだけをやって、楽に生きてみたい。

 

誰もがそう思うと思うし、誰もがその権利があると思っていて、その理想に近づくために総力を尽くすべきです。

後悔しない選択をし、来たるべき時に備えること。チャンスがくれば飛び込み、興味があることは徹底的にやる。

人の人生はせいぜい80年ほどで、歳をとればとるほど身動きが取れなくなることは20代である今でも実感していて、若いうちにやれることを全てやるべきだと思うのです。

 

人はいつ死ぬか分かりません。20代に入り身内の不幸が続き、より一層思います。その人が残してくれたもの、死をもって伝えてくれたメッセージや自分がその光景を見て感じたことは忘れずに活かしたいし何か形にして還元したいと思ったりします。

死を通し誰かに影響を与えることは誰もができる最後の役目だと思うのです。

 

 

最近ネットで見かけた在原業平の辞世の句

「つひに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを」

この句は死期を前に、いつかはくることだと知ってはいたけれど、まさか今くるとは思はなかった。という句。

 

 

俳句を詠むことは日本人がやっている古くからの言葉遊び。

これは今でいうフリースタイルダンジョンなど、古くから現代まで形を変えつつも言葉あそびは面白いコンテンツとして残っています。

戦国時代や幕末には武将や将軍、志士らが死ぬ間際に残す辞世の句が現代でも語り継がれるほどインパクトを残し死んでも尚いろんな人に影響を与え続けています。

 

今やTwitterやブログなどで簡単に誰でも言葉を残せるようになりました。

 

そこで疑問が出てきました。何をもって死なのか。どうなれば人は死ねるのか。死はなんなのかということです。

死んでもネットにはアカウントが残り続けること、本人が残した言葉が残ってしまうこと。生きていた時のまま止まっています。

人は忘れられたら死ぬという人や、心臓が止まり意識がなくなって魂は天国に行き三途の川を渡り、仏様の弟子となり修行に励むのだと信じる人もいます。

死というものはその人が信じているもの、または勝手に昔の人が決めたものであって、何をもって死なのかは個人的に決められるものなのではないか。また、死という概念が昔から決められた形から変わるのではないかと思うのです。

仮想空間で一度作られたアバターは生身の人間を投影しつつも歳を取らず、また死なない。人間が死んでもなお、動き続けるようプログラムされれば、、、、

そうなると死という概念はより幅広くなってしまう。死が軽くなる?それはいいことなのか悪いことなのかはさておき。

心臓が止まっても、残り続けるアカウントや言葉や画像映像がネットという宇宙を彷徨い、ずっとどこかで誰かの目に止まったりし続け影響を与え続けるのであれば、それは果たして死なのか?と思ったりしてしまうのです。

これからの未来、自分が呟きそうな言葉を勝手に呟いてくれるAIが誕生するかもしれません。そうなると皆さんは不老不死を手に入れたことになります。いや、そうなりますかね?