20代一般男性の価値観

価値観の記録

尊厳破壊と情報過多

尊厳破壊

プライドの破壊」「アイデンティティの破壊」に近いと思われるが、その結果として対のこれまでの存在・生き様・信念が否定され、心に大きなダメージを負う状況によく使われる。例えば、

  • 今までのプライドをかなぐり捨てるような屈辱的な行動をとらせる
  • 自分や仲間の変わり果てた姿や、その姿に変化する過程を見せる

等が挙げられる。2019年ごろからは「尊厳凌辱」というも多く使用されてきている。

尊厳破壊を受けたキャラクターは、立ち直れなくなったり、精神崩壊したり、悪堕ちしたり、洗脳されたりすることもある。一方で、尊厳破壊を受けても、その後元気を取り戻す場合も見られる。

性質上、成人向けの創作物では多く見られるが、尊厳破壊には必ずしも性的・グロテスクなものを伴っていなくてもよいため、一般向けの創作物でも見られる要素である。

                         〜 ニコニコ大百科引用 〜

 

たまたまこの言葉をSNS上で目にした。小説や雑誌でもわからない言葉があればすぐに調べる癖がついている。調べるうちにこの言葉がどんどん好きになっていくのがわかった。

何故なら、自分の中にあった言葉にできなかったものに名前があったんだと気づけたから。それを言語化出来るという喜びを感じたからだ。

漫画などを見ている時、自分が震える瞬間がある。思い返すとそれはキャラクターが尊厳破壊された時だった。もともとは性的な意味で使われた言葉らしいが、性的な意味ではないエロスがこの言葉には含まれていると思う。この言葉の意味は深いところにある。

 

 

屈強な男が何かを背負い弱き者を守るため、自分の身を挺してまで屈辱を受ける場面。

普段昼職で働くお姉さんが何かのために、夜は汚いおじさんを相手にするストリッパーになって、笑顔で会話してるが目の奥は笑っていない。

このような場面に遭遇するとドラマ性を感じ、色んな想像をしてしまう。

 

今回は尊厳破壊という言葉を取り上げたが、ネットを毎日見ていると毎日新しい発見があるのは言うまでもない。

それを見つけた時に喜びを感じ、また知識が増えたと満足する。

 

こうして日々ネットサーフィンに明け暮れているが、そんな中ふと思ったことがあった。

 

 

 

 

最近、妻と会話する中で自分が話す言葉に対して妻の頭上にハテナが浮かぶことが多々あって

馬鹿だなと思いつつも説明をしたり、自分で調べてみ?とすら言ってしまうこともしばしばだ。

妻に「いろんなことを知っているね」と言われ、自分は並の人より知識があると思い上がっていた自分は恥であると思う。

頭のいい人は相手のレベルによって言葉を使い分けて誰にでも分かりやすい説明ができるという。

 

今まで自分は無知は恥だと。

相手に知識を身につけた方がいいと強要していた。

 

しかし、今までの自分のこの考えは間違いだと気づいた。

知りすぎるのは不幸になるんじゃないかと。

 

 

知らぬが仏という言葉があるように物事を知りすぎると何事も嫌になるのではないか。

現に私は会社員になって3年を迎えようとしているのだが会社内の事情を知りすぎて嫌になってしまったことがあった。

知りたいという探究心、好奇心で簡単に知ろうとアクションを起こすと気づいたら余計なことに首を突っ込んでしまっていて、後に引けなくなる。

 

「オハラは知りすぎた」ある漫画のセリフでもあるように、知り過ぎると強いものから圧力をかけられる。

知るということの怖さを知った。

 

 

また、古代ギリシャの哲学者ソクラテスが示した「無知の知」は、己の無知を自覚することが真の認識に至るとする、真理探究の基本的な考え方としてられるの巨人は「知らないこと」よりも「知らないことを自覚しないこと」の方が罪深いと説く。 無知の知は人が物事を考える上での第一歩となることを指し示す。

 

 

この世でハッピーに生きるコツは無知で馬鹿のまま生きることだ」これもとある漫画での好きなセリフ。

自分の応援している芸能人がテレビで見せる姿、イメージとかけ離れた素行が世間に蔓延してしまう。嘘か本当かは置いておいて、それがきっかけでファンは以前より熱量がなくなってしまう。

これは今芸能界やメディアに露出している人間に対して頻繁に発生している。毎日誰かが炎上している。完璧な人間はいないが、画面を通して人を見ると不思議なことに神格化(自分でイメージを増大)して見てしまうのだ。

これは、その人が突然変わったわけではなく受け手側の脳が変化したということ。なので知識をつけずに生きる方が楽だと言っている。

 

 

 

 

これらを踏まえて、一つの答えにたどり着いた。人を幸せにするということは知識を与えすぎないこと。

 

この情報化社会で若者はインターネットを使って何でも知れること。それは幸せなのか。

 

ネットで他人の行動などを目にする機会が増え、自分の今の幸せはどこにでもある幸せだと知ってしまった時。

その幸せよりももっと大きな幸せがあると知ってしまった時。

人間は今ある幸せを見ようとせず、大きい幸せに向かってひた走るだろう。

 

 

ある巨人の漫画にもこんな場面があった。

あの壁の向こうにはどんな世界が広がっているのだろう。海という塩水がずっと遠くまで広がっている場所があるらしい。このセリフ。

誰しもが経験する田舎で育った子供が東京に一度は憧れるみたいに。

 

秋元康も歌の歌詞で。「あの山の向こうにはどんな世界が広がっているのだろうか。幸せな楽園があるのだろうか。いいや、あの山の向こうに住んでいる人からしたら、今いるこの場所は楽園なのかも知れない。」とアイドルに歌わせている。

 

 

ここでもう一度言わせていただきたい。

近頃、芸能人が受けている文春砲や暴露系YouTuberなどが多くなっている。芸能人のファンは裏側のことなんか知りたくはない、知る必要がない。知らない方が楽しめるからだ。しかし嫌でも情報は入ってくる。そのせいで何度も自分が浸っていた世界がぶち壊された。ファンは偶像に癒しを求めお金を費やす。一般市民は常に癒しを求めているからいつの時代も重要がある。これは歴史が証明している。

 

 

最後に、恋愛においても同様で相手のことを知りすぎないことは重要であると思っていて、適度な距離を保ち続けるのが長続きする秘訣。

 

人と同じ時間を過ごすうちに考え方等似てくるのは当たり前だと思うが、それをなるべく回避すること。

同じ考え方の人間と一緒にいるとつまらないし人として成長しないことは言うまでもない。

 

自分のことを曝け出しすぎないこと。秘密を持っておくと魅力的に感じるし、たとえそれが相手に知られたとしても、まだこの人には知らない所があるのかとプラスに捉えればいい。

 

物理的距離が近づくにつれ相手のことが見えすぎて知りすぎてしまう。それは自分が相手に与えることも同様で、理想の人といざ一緒の屋根の下で暮らしてみても許せないことの一つや二つ必ず出てくる。

理想が音を立てて崩れる。その時に幻滅し決断を下すのか。はたまた最初から理想の人と一緒に暮らすという夢を諦めるか。どちらにしろ知りすぎることは何事においても良くないのだ。

 

私は死ぬまで妻を「知る」という恐怖から守らなければならない。

しかし、私は「知る」という行為をやめることはできない。人間は知ることに快感を覚えているからだ。