20代一般男性の価値観

価値観の記録

幸せとは。コロナ禍での葛藤と祖父の死。

人間の幸せとは

 


幸せとは何かを考える。

人間は幸せを追い求める生き物だとする。

どこに幸せを感じるのか。

ありきたりな日常が幸せなのか、ヒヤヒヤして普段感じないスリルを味わって生きていることを実感して幸せなのか、また子孫繁栄として自分の血の繋がった子どもを愛し家族に囲まれることが幸せなのか、またこの世界に絶望し死を選ぶことによっての天国への希望、この世界からの解放によって幸せを感じるのか。

 

はたまた、幸せを感じることができる人間になることから始めるか。

人によって幸せというものが違う。

それは環境や境遇、出会い、自分の持っている力により幸せの感じ方が違う。

 

幸せの一致。

あなたが幸せであれば自分も幸せだと思える人との出会い。

 

それか、幸せの共有。

好きな人との子どもに恵まれて家族ができ、最後は家族に看取られて死を迎える。

何かを残すこと、泣いてもらえること。

 

色々幸せの形が存在するが、幸せの共有、これが最終的に自分の中での幸せなのではないかと考える。

 

 

 

逆に幸せじゃない時がどんな時かを考えてみる。幸せとは、どのようなものなのかが分かるはずだ。

人間は人間同士関係を持つと色々と災いが増える。しがらみや妬み恨み嫉み嫌みや僻みが蔓延し、さらにそれらが現代では急速にSNSが発展したことによって形として目に見えるようになった。

そんな中で生きている人間は不幸だと考えた時、それを回避できたら人は幸せになれることになるのだが、人は自分自身の力でこの現代を生きていくだけの能力があることが前提、殆ど無理だと人は支え合わないと生きていけないといつの間にか刷り込まれている。

だとすれば、支え合う人間は最小限にとどめ且つ災いが降り注がれない方法、災いを降り注がれても許せる存在、家族を増やすことしかない家族同士で支え合うこれが最善手だ。

 

今まで何度も何度もこの世界に絶望してきた。

考えれば考えるほど人間は愚かで醜い生き物で欲にまみれ自分の保身ばかり、優しさを偽り、表では優しい人に形成されてるが中身は悍ましく怖いものだ。

自分ですら自分の思考に呆れ、能力にも期待できず自分が嫌になることも数え切れないほどある。

弱い生き物のはずなのに各々が思う幸せを追い求め日々生きているがその姿というのがひどく滑稽に思えてならない。

今まで生きてきた人生で後悔したことは一度もないし今すぐ死んだとしても何の未練もない。

この世界は地獄だと考え、生きてるだけで不幸であると考える。

だが、一方でこの世界に生を受けた限り何か使命があって、残さなければいけない、また残したいという考えがある。

総括すれば、人間と関われば不幸なことが起きると、しかし関わらなければ生きていけない、最小限に関わりを持つならば血縁関係があるまたは戸籍上の家族または一族のみ。

そこで楽しむには1人で出来る趣味を見つけること。

 

 


ここで何故こんな文章を書いているのかという点について。

今、自分が幸せになるには自分の抱えてるストレスを発散することによって今の自分の立場や考えから離脱することである。

ストレスを発散する方法として文章を書き記すこと。趣味でもあるかもしれない。

 

今自分が抱えてるストレスは客観的に考えて分かったことでいうと、

このコロナ禍社会においての各々の価値観。

それに妬み嫉みを引き起こしている自分の不甲斐なさに怒りを感じてるいるのだと分かった。

 

コロナ禍以前、自分のストレス発散は人と会って会話しご飯を食べお酒を飲んだりすることだった。

それにより社会から、全てのしがらみから解放される感覚があったからだ。

その方法を見失った今はまだ他の手段を見つけられないでいる。

この方法は他のどの手段にも変え難いものであった色々試行錯誤したが何にも補完できなかった。

 

そこでコロナ禍など関係なく今まで通りの行動をとろうという考えになる。

すると、その行動によって迷惑をこうむる人が現れる。

その人はというのは「我慢をしている人」だ。

ある程度我慢ができる人間、その人は完全に自粛しコロナに気をつけながら生活を送る。

その労力は凄まじいものだ。

その人が周りの人間のせいでコロナに感染するとすれば自粛してきた人間の努力というのは報われない。

実際にYouTuberや芸能人、スポーツ選手や政界の人間で自粛を怠った人間はSNS等で叩かれ解雇や被害総額がすごく出ている人間も目に入ってきた。

実際に叩いている人間は自粛しているのかどうかは定かではないが日本では今とるべき行動ではないとしている。

それがそもそもクソで、見ているだけでこっちがイライラしてくる。

しかし、実際自分の会社の人間で完全に自粛している人や世帯を持っている人がいる。

もし、その人たちに自分の行動によって感染させてしまったら世帯主なら家族にうつし、小さい子どもやお年寄りにまで感染させてしまうことも可能性としては0ではないことは確かだ。

また、会社の人間の多くに感染させてしまった場合、クラスターを自分が引き起こしてしまった場合は、

もちろん会社は営業できず、その期間の被害額であったり、休業になると社員全員が収入ゼロになってしまう可能性だってある。

また、コロナ禍が落ち着いたとしても他の会社からの風評被害がないとは言い切れない。

 

考えすぎかもしれないが、それくらい大ごとになってしまう可能性だってある。

そう考えると会社をクビになる可能性だってなきにしもあらず。

全て可能性の話だが、自分はいつも最悪の場合を想定してしまう。

これは全くダメなことではないと思っていて

人によっては考えすぎなどと言う人もいるかもしれないが、それは間違っているし考えすぎていて悪いことなど1つもない。

 

自分だけが苦しむならまだしも他人まで巻き込むのはごめんだ。他人に迷惑をかける行為こそ人間の行為の中で最も愚行なことだと思っている。

となると自分と欲との戦いになるわけだが、実際我慢しきれず友人と2.3回飲みに行った。

どうしても我慢できなかった、彼女とも毎週のように会ってしまった。

実家のばあちゃんからは、「辛いけど我慢せなあかんで」と「お互い頑張ろうな」と何度も言われたが我慢できなかった。

自分ではすごく我慢していたつもりだ。

しかし、SNSを一度見てしまえば友人たちは楽しそうに色んなところへ行き、いろんな人と遊んでいる。

そんな風に見えてしまうし、そう感じてしまう。

そこに嫉妬し自粛している自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。

 

ただ、遊びに行くななんか言えるわけがない。

人それぞれコロナに対する見方や考え方は違って当然。

色々自分の中で葛藤する毎日だった。

 

 

そこで先日ついに発熱。

コロナは陰性だったのだが熱が数週間続いた。

あまりにも辛すぎて食べることも動くこともできなかった。

 

これで自分の価値観は大きく変化した。

会社へ連絡をするにつれ、色んな人間が動くのが分かったし実際自分の甘さによって迷惑をかける人が出たという事実。

 

このことを深く受け止めた自分はマスクをとるのが怖くなった。

 

熱が数週間続いた後、容態は回復し復職寸前で祖父が他界。

もちろん病院側はコロナ対策で家族面会を禁止としていた。

祖父は家族誰にも看取られず静かに息を引き取ったのだ。

お通夜で久しぶりに見た顔は一生忘れない。

最後何を思って死んでいったのかずっと考える。

幸せとは家族に看取られて最後を迎えることなのか?

幸せとは好きな人に最後会えて気持ちを伝えることなのではないか?と色々考えてしまう。

 

祖父にとって幸せとは何だったのだろうか。

 

孫としては意識のあるうちに顔を見て言葉を交わしたかった。

それを邪魔してきたのはもちろんコロナだ。

今でも悔しくてこの怒りをどこにぶつけたらいいのか分からない。

もどかしく、苦しい。

 

しかし、自分の欲、行動はコロナ拡大に大きく貢献している歯車の一部だと思う。

自分の気持ちの中での矛盾が生じてしまう。

遊びたい、飲みに行きたい、彼女と会いたいという気持ちと祖父の思いを考えるとコロナが憎くて仕方がない。

この2つの感情が入り混じり、どうしようもなくなった今。

 

最終的に自分の考えは遂に「どうにでもなれ」という考えに至った。

後先考えず、言葉を発し、行動し欲のまま生きること。

この文の中盤でも言ったが、今まで後悔したことは一つもないと。

しかし、この「どうにでもなればいい」という考えに至った自分。

今のままじゃ幸せになれないのは分かってる。

 

個々で描く理想の未来は違う。

その理想にどれだけ近づけるかが人の幸せ。

(プラチナエンドから引用)

これから自分は後悔してしまう行動に出るかもしれない。

その先に幸せがあることを願って。