「猿楽町で会いましょう」
大阪では平日にしか映画館は開いていなくて、休みを取り、朝早起きして衣替えを済まし家を出た。映画館に入ると、人は思ったよりもいて、やっぱりこのご時世でも映画を求めている人が居るんだなと少し暖かい気持ちになった。
映画を見るにあたって自分は必ず飲み物を買う。あと、体勢を変えやすい身軽な服装で挑む。
観賞中は自分の職業病が出てしまう。ああ、ここの演出イマイチだなとか、俺ならこのアングルじゃないなとか、照明当て方良いなとか。生意気に。
そんな映画は決まって、つまらないと感じてしまうのだが「猿楽町で会いましょう」は違った。ネタバレを避けたいので、感想だけ書くことにする。
好きな映画に決まって自分の中で起こることは、その主人公の気持ちに入っていってしまうこと(没入型)が共通点としてある。物語の途中まで俯瞰で見ていたはず、気持ち的には登場人物の想いに共感し、可哀想だなと同情する場面も多くあって、登場する人々の感情や仕事の巡り合わせのタイミングだったり、全ての事象が1つも噛み合ってない状態で心がむず痒くなった時、自然と涙が出ていた。
この物語は決して誰が悪いとかはなく、全員が正しい。全てのことがただ少しだけズレているだけで、違う結果を生んでしまうのだということ。
それが観賞中では理解してないのだが、何故か涙が止まらなくて、自分はこれが初めての事だった。
何が初めてなのかというと、心は完全に俯瞰的に物語を見ていたはずなのに、いつの間にか自分の知らないところで登場人物の気持ちに入っていっていたのか、涙が流れていたのにも気付くのが遅れ、涙を流している自分に驚いてしまった。
今までは、物語には悲しい場面があり、作り手も泣かせる工程を正式に踏んで、これはもう泣くしかないという最高潮の演出をし、観客は涙を流す。その構造を理解した上で自ら溺れにいき、泣いてスッキリする。というのが今まで自分が出会った作品の中の「御涙頂戴映画」という概念だった。
それを覆してきたのがこの映画。完全に盲点で、自分が泣いた理由すらも分からない。何故体は涙を流すという選択をしたのか。全然分からない。
1つ、無理矢理答えを出すのならば、この映画の伝えたいメッセージが僕自身の中で触れたくなくて抑え込んでいた部分だったという事。それをこの映画を通して画面越しに触れられて、どうしたらいいか分からずに涙を流したのではないだろうかという答えに至った。
そんな映画と出会えた事はとても刺激になった。
作品というのは、人それぞれ受ける感想は違うものであることは当然のことで、出会うタイミングがドンピシャなら今回みたいに人の心に響く。だが、作品に触れた日が1日ずれるだけでも感想は違ってくるのが面白いところ。(大袈裟に言い過ぎたかもしれない)今回の自分みたいな感想を持った人は少ないと思うが、人によって「僕にはこの映画、全く分からなかった」という映画こそ、数年経って見返すと人生を変える作品に変化するかもしれない。商業映画みたいな多くの人の心に刺さる映画よりも、少ない人に深く刺さる映画を日本は作り続けた方がいいと思う。
また、商業映画批判になってしまってないだろうか。多くの人に刺さる映画も好きですよ。「君の膵臓をたべたい」でも「花束みたいな恋をした」でも号泣しましたから。