20代一般男性の価値観

価値観の記録

猿楽町で会いましょうを観ました。不思議な体験をしました。

 

猿楽町で会いましょう

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大阪では平日にしか映画館は開いていなくて、休みを取り、朝早起きして衣替えを済まし家を出た。映画館に入ると、人は思ったよりもいて、やっぱりこのご時世でも映画を求めている人が居るんだなと少し暖かい気持ちになった。

 

映画を見るにあたって自分は必ず飲み物を買う。あと、体勢を変えやすい身軽な服装で挑む。

観賞中は自分の職業病が出てしまう。ああ、ここの演出イマイチだなとか、俺ならこのアングルじゃないなとか、照明当て方良いなとか。生意気に。

そんな映画は決まって、つまらないと感じてしまうのだが「猿楽町で会いましょう」は違った。ネタバレを避けたいので、感想だけ書くことにする。

 

好きな映画に決まって自分の中で起こることは、その主人公の気持ちに入っていってしまうこと(没入型)が共通点としてある。物語の途中まで俯瞰で見ていたはず、気持ち的には登場人物の想いに共感し、可哀想だなと同情する場面も多くあって、登場する人々の感情や仕事の巡り合わせのタイミングだったり、全ての事象が1つも噛み合ってない状態で心がむず痒くなった時、自然と涙が出ていた。

 

この物語は決して誰が悪いとかはなく、全員が正しい。全てのことがただ少しだけズレているだけで、違う結果を生んでしまうのだということ。

 

それが観賞中では理解してないのだが、何故か涙が止まらなくて、自分はこれが初めての事だった。

何が初めてなのかというと、心は完全に俯瞰的に物語を見ていたはずなのに、いつの間にか自分の知らないところで登場人物の気持ちに入っていっていたのか、涙が流れていたのにも気付くのが遅れ、涙を流している自分に驚いてしまった。

今までは、物語には悲しい場面があり、作り手も泣かせる工程を正式に踏んで、これはもう泣くしかないという最高潮の演出をし、観客は涙を流す。その構造を理解した上で自ら溺れにいき、泣いてスッキリする。というのが今まで自分が出会った作品の中の「御涙頂戴映画」という概念だった。

それを覆してきたのがこの映画。完全に盲点で、自分が泣いた理由すらも分からない。何故体は涙を流すという選択をしたのか。全然分からない。

1つ、無理矢理答えを出すのならば、この映画の伝えたいメッセージが僕自身の中で触れたくなくて抑え込んでいた部分だったという事。それをこの映画を通して画面越しに触れられて、どうしたらいいか分からずに涙を流したのではないだろうかという答えに至った。

 

そんな映画と出会えた事はとても刺激になった。

 

作品というのは、人それぞれ受ける感想は違うものであることは当然のことで、出会うタイミングがドンピシャなら今回みたいに人の心に響く。だが、作品に触れた日が1日ずれるだけでも感想は違ってくるのが面白いところ。(大袈裟に言い過ぎたかもしれない)今回の自分みたいな感想を持った人は少ないと思うが、人によって「僕にはこの映画、全く分からなかった」という映画こそ、数年経って見返すと人生を変える作品に変化するかもしれない。商業映画みたいな多くの人の心に刺さる映画よりも、少ない人に深く刺さる映画を日本は作り続けた方がいいと思う。

 

また、商業映画批判になってしまってないだろうか。多くの人に刺さる映画も好きですよ。「君の膵臓をたべたい」でも「花束みたいな恋をした」でも号泣しましたから。

チェンソーマンと映画

チェンソーマンという漫画はご存知でしょうか?

 

簡単な説明は抜きにして、ただ素晴らしさを語っていきたいのですが、その中でも5巻の39話についてです。

 

www.amazon.co.jp

 

作者の藤本タツキ先生はおそらく映画好きで、何かしらの映画のオマージュが多用されているらしいんですけど(それは別の方のブログをみてもらって)今回はその素晴らしさ、まずカット割について。

 

一コマ一コマが映画的で、メッセージ性が強く、読みやすく感じてしまう。それは一コマの情報量と感情の見せ方にポイントがあると思っています。

 

漫画というのは、自分のペースでコマを見ることができ、ページをめくることができる素晴らしいコンテンツ。

映画的な描写を読み手のペースでインプットできる漫画はそうありません。個人的に衝撃的な出会いでした。

 

 

チェンソーマンの物語の中で主人公デンジは、人間の本来の欲望のまま行動したり発言したりします。まずこれが少年誌ジャンプっぽくないこと。

デンジは、あるきっかけで悪魔になってしまうんですが、自分は完全に悪魔になってしまったのでは?と不安になり、上司のマキマさんに人間かどうかを確認する第39話。

 

 

僕たちも日常生活を淡々とこなしていると、たまに思うことがあると思うんです。ロボットなのでは?と。毎日同じことの繰り返し、何も刺激がない日々の中、人間だと気づかしてくれる瞬間は好きな人と一緒にいる時だけなのではないでしょうか。

 

デンジは、一つのミッションを終えてその中で成果をあげ、それをみていたマキマさん。さらにデンジの中の葛藤、悩みを見抜いていたのか、マキマさんがデンジにいきなりデートに誘います。

マキマさんに好意を抱いていたデンジはウキウキでデートに向かい、そこで初めてデート内容を聞かされます。

 

マキマ「今日は今から夜の12時まで映画館をハシゴして見まくります

 

最高です。好きな人と映画。

この人は、自分と同じシーンで泣くのか笑うのか。見終わった後、カフェで同じ感想を言い合うのか。真逆のことを思って論争してしまうのか。相手の意見を飲み込み賛同するのか。

また、映画を見ているその横顔は、どの景色よりも綺麗で、儚く、陰影も顔のエッジの曲線も素晴らしくて一生忘れることができない思い出。

胸の高鳴り、感情を表に出したことによってデンジは、自分の人間味を再確認でき、また日常生活へと戻っていきます。

 

39話のラストカットも素晴らしく、ここで引き画を見せることによりデンジの心情がより一層表現でき、またデンジを中央に描かないというセンスの良さ。

初心者の絵作りは日の丸図法(被写体を画面中央に設定する図法)と呼ばれている構図の連続になりがちになってしまいます。

逆にこの漫画の構図は、日の丸を多用していないので、そこらへんの商業映画よりもはるかに映画的なんです。

 

チェンソーマンは素晴らしい、布教させたい。いやさせます。

 

 

嘘と真実の狭間で生き延びる為には、嘘を知ることからはじめる。

「好きな人のタイプは?」

「うーん、嘘をつかない人かな....」

 

たまに見かけますね、こんな人。過去にどんなひどい目にあったか知らないですが、嘘をつかない人なんか存在しないですし、嘘を「悪」としてみている人に考えの選択肢を増やしてほしい。

嘘の価値嘘の種類嘘を見極める能力の必要性について、今の自分の考えを書き綴りたいと思います。

 

 

まず、嘘の意味。「事実ではないこと。人間を騙すために言う、事実とは異なる言葉。特に故意に表明されたことを言うWikipediaより。

 

 

 

人それぞれ存在すると思うんです。「嘘を許せるライン」が。そのラインは、嘘を誰から受けたかによって変化するというすごく曖昧な基準。許してしまった時点でその嘘は嘘じゃなくなるのです。

 

 

嘘の意味的には、マイナスな言葉ではあるんですけど、受け取り方次第でその嘘は、人を楽しませるエンターテイメントとなりえますし、また愛情にもなりうるのです。

 

僕は映像の学校を卒業し、映像に携わる職に就きました。その学校の授業で教えられたのは

カメラより向こう側は嘘の世界。嘘をいかにして本物に見せるかが勝負。よりリアルに近づけることができる腕を持っている奴だけが生き残る世界」だと。

 

 

確かにテレビで見るバラエティ番組は台本があるし、ドラマや映画などで太陽の光だと思っている光は、ほとんどライトで作った人工的な光です。恋愛バラエティーは台本こそないらしいですが、演出が入っています。

これらも一種の嘘なのですが、当たり前に日常に溢れていて嘘を無意識に受け入れ、楽しさに変換しているのです。

 

エンタメ=嘘。ということを言っているのではなく、受け手によって嘘が嘘じゃなくなるということ、世界には色んな種類の嘘が溢れているということ、それを見極める能力が必要で、それがないと絶対に損をしてしまうということ、それを言いたいのです。

 

 

 

表舞台に立っている人間の話。俳優やアイドルについて。ここから嘘の価値についてをお話しします。

俳優さん。特に女性の方は、男性より演技の成熟が早いと聞いたことがあります。それはなぜか。普段から女性は化粧をし自分の素の姿を隠し綺麗に見せるという習慣は昔から続いていること。これは周りからの目を気にして、もっと自分をよく見せたいと思う心理からきていると思うんです。比較的、女性は男性によくみてもらいたいという欲は幼少期から植え付けられる、その逆で男性は女性にというのも当然あるのですが、女性の方が外に意識を向ける時期が早いので一般的に演技の成熟が早いと言われていたりしてます。

あまり言いすぎると、男女差別やら、フェミニストの琴線に触れてしまう現代なので言い過ぎないように言葉を選びたいのですが、伝わりきれるでしょうか。

女の人は嘘がうまいとか、まあ、察していただけると幸いです。

 

そこから、アイドルの話。

ハロープロジェクトやジャニーズなど最近のアイドルグループは、中学1年生で加入などよくある話で、過去を振り返ると小学生の頃から表舞台に立っている子も珍しくはないです。

ここで例に上げさせてもらうのは中森明菜さん。15歳でスター誕生に出演し、翌年デビュー。16歳で少女Aを歌ってます。

皆さんも一度は耳にしたことがあると思うんですが、16歳にあの歌詞を歌って踊ってを表現させるというエンタメは画期的で、本人はどういう気持ちで歌ってるのかは分からないですが、哀愁漂わせる歌い方や表情は、みている人を魅了させました。

どんな容姿のファンの方でも愛し、優しい言葉をかける。それを鵜呑みにしたファンは愛情を注ぎ、そこでお金が動きます。

表に出る人は自分のプランニングも大切で、歌やダンス以外での場面で自分の個性を出し、キャラ付けをします。時にはバックボーンだったり自分の考えをさらけ出し、それに共感や賛同を得る。それがパフォーマンスに繋がったり、普段とのギャップに引かれたり(その普段の姿といっているのが本当の姿じゃなかったり)売り方が大切です。

なぜ、人はアイドルに心が動き、お金を動かすのか。

ハマったことのない人は言うでしょう。「あんなの嘘の塊だ」と。

すごい変なベクトルに向いているファンだと、アイドルに恋愛報道が出た時、掌を返して「騙された。今までファンにむけた愛情は嘘だったのか」などと言う馬鹿が多数出てくるのです。

所詮エンタメです。恋愛じゃない。アイドルも時には笑えない瞬間だってあると思うんです。でも笑わないといけない時だってありますし、「応援してくれているファンの方々が大好きです」と心の底から言っているかは定かではないです。また、言いたくないことも言わなければいけないことだってあります。

何を嘘と捉え、何をエンタメと捉えるのか。それは受け取り方次第です。

 

 

最後に、冒頭で言った恋愛の中での嘘について。ここからはお金の為の嘘ではなく、愛があるが故の嘘についてです。

嘘が嘘だと気づいた時に、それは嘘になってしまうので、知らなければそれは嘘ということにならないということ。

君のためを思っての嘘だったんだよ」という人。これはもう嘘だと相手が分かった後なので言い訳にしかならないです。

お金の為の嘘(エンタメ)は自分はそれが嘘だとわかっていながらも嘘に飛び込んで自ら溺れることができるんですけど、愛があるが故の嘘は気づいたらもう沼の中という違いがあります。

そこが沼だということを気づかせない努力をする。嘘を隠すためにまた新しい嘘をつくそれの繰り返しで、嘘をつく側も違う意味の沼にハマっていく。

ここで言いたいのは、愛のある嘘をつかれた側の人間は、嘘だとわかってもそれが嘘であると気づいてはいけないということ。

それは紛れもなく嘘なのだけれども、その嘘は愛であると変換してほしいということです。

嘘が嘘であると認識してしまった場合、今までの言動全てが嘘に変化してしまうこと。それは逆にその嘘を嘘と捉えずに愛と捉えれば、全ての言動も自ずと愛と受け取ることができるのです。

 

知らぬが仏という言葉があります。皆まで言いません。

 

 

 

ここで愛があるが故の嘘という話をすることによって、僕が愛している人に嘘をついているから許してほしいと遠回しに言っているのではありません。

そんな分かりやすいことはしないです。だってそんな自ら明かすようなことをするでしょうか。普通ならしません。

 

そこで何が嘘であるかを見抜く能力が必要になってきますし、自ら嘘に溺れて楽しむというのも悪くないですよね。

嘘を嘘であると認識しないようにできるという一種の「才能」を持っている人が存在するという事実。そんな人が僕は大好きです。

 

 

 

コロナ禍での限界。フラストレーションが溜まる社会人。勧誘待ってます。

ストレスの発散方法について困っています。

 

 

コロナ禍につき、人の行動に制限がかけられている状況。以前とは全く違う方法で自分の中のフラストレーションを晴させないといけない。その手段がないのです。

 

困惑すると同時に、コロナ禍前までしていた飲み会の大切さを感じるきっかけになりました。リモート飲みというものが新しく生み出されましたが完全に下位互換。

やっぱり対人によって生み出される何かがあるのではないか?と考えてしまうほどリモートは物足りなかったのです。

 

 

そこで別の手段を考えます。

映画を見まくる、漫画を読みまくる。もうやり尽くしました。インプットはもういい。するとアウトプットに目を向け始めました。

iPadを購入し、たまに絵を描いてみたり。少し遠くに写真を撮りにいったり。パソコンでこうしてブログを書いてみたり。

それはそれで自分の中で満たされる部分はあるのですが、「飲み会」とは別の部分が満たされるだけで、本来「飲み会」で満たされる部分は「飲み会」でしか満たされないのです。

というところまでたどり着くと、飲み会で得られる感覚と類似した物か、それを超える満足感を得られる物を探さないといけません。

 

 

するとどうでしょう。その満足感を得るという行為の雲行きが怪しくなってきました。20代の自分は満足感を限りある経験や選択肢、知識の中から工夫をし生み出そうとします。はたまた、全く別の角度から新しい物にチャレンジして得られる満足感もあります。

そこで一つ間違えれば、犯罪まがいのことをしてしまう可能性は0とは言い切れなくななる問題に直面し、自分の取り巻く環境によっては、いけないことに巡り合ってしまい、そこで今まで以上の満足感を得られるかもしれないと思ってしまう。

 

 

それほど人間は丈夫じゃないと感じることが多く。ほんとたまたまハマったのが人によってゲームだし、人によってはドラッグなのかもしれないと。

 

コロナ禍によって人間の脆さが露呈してきて、今の世界はとても暗いです。

自分は今ギリギリ食べ物という一種のドラッグを過剰摂取することによって生き延びています。その結果、人生最高体重にまで到達しました。

 

あなたの今のドラッグは何でしょうか。あなたはそのドラッグで満足していますか?

 

儚いモノへの価値。大切なモノと命との天秤が不安定であることについて。

近頃、自分は儚いモノが好きなんだと分かったんです。

いや、儚いモノを見て打ち拉がれている自分、それに酔っている自分が好きなのかもしれない。。。

 

 

 

 

海外で有名な「27クラブ」ってご存知ですか?

有名な人物が複数人、決まって27歳で死亡してしまうという不可解なことが起こったんです、まあ偶然だと思います。

最近、「コントが始まる」というTVドラマでもチラッと取り上げられていました。神木くんが僕は27歳になったら死ぬんだと。

それだけ功績を残した人物がやることを全て終えたぞと、27歳で人間としての活動を終了させる。これを人は「儚い」と捉える人もいると思います。

死をもって人生は完成するんだと誰かが言っていました。死は何かを伝えるメッセージなんでしょうか。達観した人々が収束する一つの答えは死なのでしょうか。

 

 

また、「儚い恋だった」と表現したりもしますよね。

短い青春時代の間に叶わなかった恋。夢にまで出てくるぐらい印象的なもの。届いたと思ったら触った瞬間すぐに手の隙間からこぼれ落ちてしまった。

すぐに終わってしまうんじゃないか?気付いたら見失ってしまいそうなもの。それに人間は心を奪われて惹かれて落ちていってしまうんです。そういった体験をしたことがあると思います。

 

そのモノに終わりがあるんじゃないかと思った瞬間。笑顔でさえも哀愁が漂い儚さを感じてしまう。今で言うエモいに近い感情になることを僕自身楽しんでいます。

 

 

その感情を何で体験したかというと、TV番組「クレイジージャーニー」奇怪遺産フォトグラファーの佐藤健寿さんが紹介した「バーニングマン」でした。

 

 

 

クレイジージャーニーはすごく好きな番組で、MCの3人も好きなことはもちろん、出てくるゲストも面白い人が多く、自分が世界を旅した気持ちになれるところが好きでDVDを借りて見るぐらい好きな番組。

ゲストの佐藤さんは世界中の奇妙な場所や、自然現象、人々が興味があるが立ち入るのが難しいところでその風景を写真におさめるフォトグラファーです。

今回はアメリカの砂漠で毎年約1週間だけ現れる街「バーニングマン」そこに入るにはチケットが必要で世界中からセレブ、様々な人種が集まり外部から情報は一切遮断され、物資などは自分で持参したものだけで、あとは物々交換。五万人が一つの街で共同生活をする。その際、街には様々なアート作品が展示されており、自らをアート作品として不思議な格好をしている人々や、服装は自由なので全裸の人も。

その街の中央には「The MAN」という人型のオブジェがあり、全てを無に還すという意味で最終的に燃やしてしまうお祭りが開催される。

 

 

 

この映像は衝撃的で、宗教や貧富の差、人種関係なく多くの人々が行き着く先がこの街。素晴らしい大自然の中のアート作品人とのコミュニケーション。それ以外全く必要がないということと。その環境を求めている人がこんなにもいるんだということに衝撃でした。

まさに別世界。1週間だけの夢の世界。終わりがあるからその場所に価値ができ、最後に中央のMANを燃やすところを皆で見守る。

 

林間学校で、友達、好きな人や仲間と共同生活をして一緒の思い出を作って終わりのキャンプファイヤーをみんなで見守る。みたいな感覚だろうか。わかりませんが、あの時間は今思えば儚い瞬間だったと思います。

 

スタジオでVTRを見ていた松っちゃんは涙が出そうになったと言っていて、それに比べ何とも言えない感情になって、ただ口を開け「すげぇ」と呟いていた自分。

 

 

この世はまだ捨てもんじゃないなと思ったし、まだ20代じゃ死ねないなと思います。死に対する人それぞれの価値観はもちろん違います。

 

でも命を軽んじてはダメで、死を決断するまでに追い込まれる人がいること、人生の終わりを悲しいメッセージとして表現することは自分は好きではないし自分の周りの人たちにはそれを選んで欲しくないと願っているけど、何が引き金で自分がそうなるのか分からないのが本音で、日々ギリギリ回避していると感じる時もあります。

 

生きるのは難しいですね。この生きている世界がもしかしたら地獄かもしれないですし楽になるという意味で天国を選択する人の気持ちも分からんでもないです。

 

自分を必要としてくれている人の存在だけで、足を踏みとどめてるだけですから、この世界に何の未練もないし。何も期待はしていません。期待しすぎると裏切られた時が一番しんどいですもんね。明日も気張らず頑張らずいきましょう。

 

 

 

 

【海街】今、溢れかえる芸術作品達の中から触れるか触れないかを選択することができる現代。その選択のタイミングによって人生が大きく変化することへの戸惑い

ある作品との出会い

 

 

最近、よく「この作品は今触るべきなのか?」と思うことが多くて困っています。

 

今無数の情報が飛び交う現代SNSやネットニュース等で色んな作品と出会うことがあると思います。

音楽や映画、小説、漫画、様々な形で作品が溢れかえっていて、流行り廃りが目まぐるしくYouTubeに至っては「あなたへのおすすめ」としてAIが好きなモノはこれでしょ?とドヤ顔で差し出してくる感じ

「ありがとう!そう!それそれ!」となるぐらい感謝している部分もありますが、はたして便利な世の中になったのか?その弊害が出てるのでは?と疑問を持つ時もあります。

 

そこで言いたいのは

私たちには触れる作品を無数の作品の中からいつでも自由に選ぶことができる

という権利を持っているということ。

 

いつでもというところがポイントで作品と出会うタイミングも選べるんです。

作品を選ぶのでも難しいのに、タイミングも選択しないとダメなんて頭がこんがらがりそうで。

皆さんはどうしているんですか教えていただきたい。。。

 

逆に意図せずに触れてしまうっていう経験もあるんじゃないでしょうか。

たまたま入ったお店で流れてきた曲。

これ、元彼が好きだった曲だ、、、みたいな

 

昔は別れ際に花の名前を言って、相手がその花を見るたびに私のことを思い出して後悔すればいいみたいな件はよくあったらしいです。知りませんが。

有川浩さんの植物図鑑か、川端康成の小説だったか忘れました(笑)

今は花の名前じゃなく、それはなんらかの作品になってますよね

別れ際にお互いに好きな本を交換するとか、好きな人と見た映画のワンシーンとか。

花より思い出してしまう数が圧倒的です。困ります。

 

 

 

話が脱線しましたが

なぜ悩んでいるのかというと

僕の作品に対する価値観の話。ある作品に人生を変えられたことがあるからです。

 

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【人物形成】幼少期に体験した衝撃が今の自分を作りあげる

社会に出るとよく耳にするのが「価値観」という言葉です。

 

諸説ありますが、人間の価値観は

中学生までに形成されると聞いたことがあります。

つまり、人間は中学生までに完成されるのです。

 

人物形成というものは、家庭環境はもちろんのこと

何を経験し、何を学んだかということで成されると思っています。

 

小さい時に何を経験したか何を見てきたのか

特に幼少期の記憶というものは年齢を重ねるにつれ薄れていくもので

でも、何かのきっかけで、ふと蘇ってくることが多々あります。

 

最近、YouTubeのおすすめに勝手に上がってきたのが

ウルトラマンのop集でした。

 

男の子なら誰しも通る道

ウルトラマン、戦隊モノ、仮面ライダー、はたらく車、トーマス、アンパンマン

ジブリ、、、

満遍なく見させられていた幼少期

大人になってから分かる親の教育理念。

子どもの可能性を探るため、色んなものに触れさせる大切さ。

親に感謝しかありません。

 

 

 

今回の記憶のトリガーはウルトラマン

その中でも「ウルトラマンA(エース)」です。

 

第26話「全滅!ウルトラ5兄弟」は幼いながらも強烈にショックを受けた回でした。

なんせ、最強だと思っていたウルトラマン達が、

ヒッポリト星人によって全員囚われてしまうんです。

 

その囚われ方というのがすごくて

ウルトラマンの頭上から透明なカプセルで閉じ込め

液体を流し込み、ブロンズ像に変えてしまうんです。

 

もう、絶望しかありません。

 

今まで何度も助けてくれたカッコイイヒーロー達が

簡単に囚われ、もがき苦しむ描写もあり、最終的には固められてしまう。

幼いながらその時の感情は絶望、悲しみ、の中に少し

変わった感情があったのを覚えています。

 

 

 

また、第14話「銀河に散った5つの星」も印象強く

この回でもウルトラ兄弟達が敵に拘束されるんですが

今度は十字架に手足と首を鎖で磔にされるんです。

 

もう、見てられません。幼いながらショックが大きくて

あの強い象徴のウルトラマン達がみっともない姿になってしまうんです。

 

この時も何か違和感を感じているのが幼いながら分かりました。

悲しい、辛い、それ以外の説明できない感情が心に存在するんです。

 

 

ここで冒頭にもあった「価値観」の話です。

今回は性の価値観。というより性癖です。性癖の話です。

 

全ての物へ対する価値観や人の性格というものは

その人の性癖と密接に関係していると自分は思っています。

 

物の価値観≒性格≒性癖

 

例えば、

あの人はこんな人だよ。と説明する際

物へ対する価値観(あの人はケーキの周りのフィルムについているクリームまで食べる人)だったり

短気や温和など心の広さ(あの人は靴のかかとを踏んでるだけでだらしないと決めつける人)を言ったりします。

それに加えて、性に関する言い方(あの人はトイレで○○○したことあるらしいよ)で説明したりもします。

 

何が言いたいかと言うと

性癖は立派な人物形成に関わる要素と言うことです。

 

 

ここで、ウルトラマンの話に戻します。

幼少期に感じていた違和感の正体は

今の自分の性癖に繋がっていました。

 

 

大きくて強い存在が拘束されて身動きがとれない状態

 

 

何がとは言いませんがその状態を見ると心を持っていかれてしまうのです。

 

その時に芽が出てしまったことは気づくのに時間がかかりました。

あの人がこうなってしまった、、、には絶対に原因があり

その原因は幼少期にあるのです。

 

 

そこで教育の方法論にも繋がってくるんですが

何をどのタイミングで子どもに経験させるのかが重要で

自分の場合、ウルトラマンで良かったのかもしれません。

 

もっと出会いが遅かったり、変なもので芽が出てしまったとしたら

大きくなって犯罪を犯してしまう結果になっていたかもしれません。

それは完全に意図したことではなく運なんですけどね。

 

皆さんも幼少期の記憶から今の自分の性格を紐解くことによって

何か感じたり自分を理解したつもりになってみるのも悪いことじゃないかもしれませんよ。

 

余談なんですけど

歴代ウルトラマンのopの中ではレオが好きです。